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ネットでのゴミ拾いアピールは、はたして本当に、釣り人の首を絞めるのか

ネットでのゴミ拾いアピールは、はたして本当に、釣り人の首を絞めるのか

釣行後のゴミ拾いをSNSで発信すると、「偽善だ」「黙ってやれ」という声が上がることがあります。

善意の可視化は、本当に釣り人の首を絞めているのか。

それとも、私たちの認識そのものが偏っているのか。

現場で見えているもの、見えなくなっているものを整理しながら、この問いを考えてみます。

目次

本記事で使用されている画像の一部は、画像生成AIを使用して生成されたものでありフィクションです。登場する人物、団体、名称、場所などはすべて架空のものであり、実在するものとは一切関係ありません。

見えすぎる「悪」から話を始めよう

撮影:TSURI HACK編集部

釣り場に立って、ゴミを一つも見かけない日は、ほとんどありません。

さまざまな種類のゴミがある中で、とくに私の目を強く引くのは、枝や倒木に絡みつき、大地や地中にまで根を張るようにこびりついたラインゴミ(釣り糸)の数々です。

あの光景を前にして、胸の奥に何も感じない釣り人は、そう多くないはずです。

一方で近年、SNSでは釣行後のゴミ拾いを報告する投稿も増えました。

撮影:カズ・サバイブ

拾い集めたゴミの写真に、「今日はこれだけ回収しました」と添えられた一言。

それを善意と受け取る人がいる一方で、こんな声もあります。

名無し

ゴミ拾いのアピールなんて、結局は釣り人の首を絞めているだけだ。

釣り人=ゴミを出す迷惑な集団、という“負の印象”を広めてしまう。

だから、そういうことは静かにやるべきなんだ。

——と。

その投稿からは、一時の感情の昂りと言うよりも、釣りを取り巻く状況を冷静に見渡し、全体への影響を考えようとする視点が感じられました。

uoppay

正直に言えば、私も「もしかしたら、その通りかもしれない」と一度は立ち止まって考えてしまったのです。

悲観は、現場を知りすぎた結果でもある

まず確認しておきたいのは、こうした批判の多くが、釣りと無関係な第三者の声ではなく、釣り人自身の言葉である、という点です。

彼らは釣り人の「暗い側面」を、断片的に目にした人たちではなく、現場に足を運び続けるなかで、長い時間をかけて繰り返し見てきた人たちなのではないでしょうか。

自分がどれだけゴミを拾っても、いくらプロが啓発しても、インフルエンサーが声を上げても──風景が目に見えて変わらない場面に、何度も立ち会ってきたのではないか。

そうした経験の積み重ねがあれば、「善意を見せても意味がない」という見方に至るのも、一定の論理を持った帰結なのかもしれません。

それでもなお、読み終えたあとに、胸の奥に、わずかな引っかかりが残りました。

その感覚から、もう一歩だけ考えてみたいと思ったのです。

uoppay

この世界には、本当に悪意しか残されていないのだろうか。

それとも、私たちが見ているもの自体が、既に偏っているのではないのか?──と。

悪は残り、善は消える

撮影:釣り好きまっちゃん

ここで一度、熱くなった頭を冷まし、少し距離を取って考えてみます。

釣り場に残るもの──それは、たいてい「悪い行為の痕跡」です。

釣り禁止となった立て札、路肩に無造作に並ぶ違法駐車の車、そして風に飛ばされたままのラインゴミ。

どれも、かつてそこにマナー違反が確かに存在していたことを、静かに、しかし確かに物語っています。

撮影:釣り好きまっちゃん

一方で、「良い行為」は痕跡をほとんど残しません。

誰かが拾ったゴミは袋に詰められ、回収車とともに姿を消します。

誰かが静かに掃除した釣り場は、「最初からきれいだった場所」として記憶されるだけです。

つまり、私たちの視界に届く情報は、構造的に“悪”へと偏っているのです。

釣り場に通えば通うほど、目に入るのは、残された痕跡ばかりになる。

その積み重ねが、「やっぱり釣り人はひどい」という印象を、知らず知らずのうちに強めていく。

uoppay

「悪の痕跡が残り、善の痕跡が消える」という現実の構造が、私たちの認識を、静かに、しかし確実に歪めているのかもしれません。

善が見えないと、人は諦める

「ゴミ拾いは静かにやるべきだ」──その背後には、ある種の人間観が潜んでいます。

善意は素直に受け取られず、冷笑や揶揄、“偽善”や“自作自演”といった言葉で攻撃される。

さらに、写り込んだゴミそのものが、「釣り人の加害性の証拠」として利用されることさえある。

そうした反応を見れば、「善い行いこそ目立たせるべきではない」と考えるのも無理はありません。

それは現実を知った者なりの、合理的な帰結でもあるでしょう。

しかし──「人は善意を受け取らない」という前提で人間を見続けたとき、私たちはどこへ向かうのでしょうか。

信じることを手放し、何も見せず、傷つかないことだけを優先する。

そんな“信頼の放棄”こそが、社会の空気を冷やしていくのではないでしょうか。

撮影:カズ・サバイブ

人は、他人の振る舞いを見て行動を決める生き物です。

善い行動に触れる機会がなければ、「自分もそうしよう」と思うきっかけは生まれません。

ネガティブが速く広まるのは事実です。それでも、善い行動がまったく伝わらないわけではない。

もし、その連鎖の起点が「目に見える行為」にあるのだとすれば、善意をすべて見えない場所にしまい込むことは、本当に得策なのでしょうか?

uoppay

善が見えなくなったとき、私たちは行動だけでなく、人間そのものを、過小評価してしまうのです。

「ネットの印象」と「現場の実害」は別問題

「ゴミ拾いを発信すると、かえって“釣り人=マナーが悪い”という印象を広めてしまうのではないか」こうした懸念は、今も根強く存在しています。

しかし、この議論を正しく考えるためには、ひとつ重要な前提を見直す必要があります。

それは──釣り人の悪い行動は、ネットからではなく、現場で既に目撃されているという事実です。

立入禁止区域への侵入、路上駐車や騒音、残されたゴミ。

それらを目の当たりにしているのはSNSの向こう側にいる誰かではなく、現地に暮らす住民や、日々そこを通る生活者たちなのです。

つまり、悪い行為は「ネットで拡散される前」に、とっくに“見られてしまっている”。

この現実を踏まえれば、「ゴミ拾いが、悪い印象を助長してしまうのでは」という不安は、少なくとも論理的には成立しにくいことが分かります。

そもそもが、隠されていた“悪”が暴かれる構造ではないのです。

確かに、SNSでゴミ拾いの投稿が拡散されれば、これまで釣り場に関心のなかった層にまで「釣り人って、こんなにモラルが低いのか」という印象が届いてしまう危険はあります。

ただ、そこで押さえておきたいのは──その“印象”だけで、釣り場が閉鎖されたり、規制が強まったりするわけではない、という点です。

状況を動かすのはネット上の空気ではなく、現場で積み上がった実害と苦情です。

SNSは“見られる範囲”を広げることはあっても、釣り場を閉鎖へと向かわせるような決定打を、単独で生み出す構造にはなりにくいのです。

むしろ問題は別のところにあります。

現場の人々が日常的に接しているのは、「悪い行動の痕跡」ばかりであり、その裏で行われている善い行動が、認識されることなくスルーされてしまっているという非対称性です。

だからこそ、善意を丁寧に可視化していくことには意味があります。

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それは自己アピールではなく、偏った印象に対して「もう一方の事実」をそっと提示する行為なのです。

「ゴミ拾いは偽善だ」という批判に対して思うこと

釣り場に限らず、ゴミ拾いという行為には、周期的に「偽善だ」「自己アピールだ」といった言葉が投げかけられます。

本来、こうした言説ひとつひとつに説明を加えなければならない状況そのものに、少し疲れも感じています。

「偽善って言葉、覚えたから使ってみたくなっただけでは?」──そんなツッコミを飲み込みながら、ここでは一つの事実だけを述べておきます。

動機がどうであれ、ゴミ拾いという行動は、確実にその場のゴミを減らしている。それは数字で測れる、疑いようのない現実です。

対して、「偽善だ」という言葉が、釣り場や社会を良くしたという事例があるなら、ぜひ教えていただきたいところですが──少なくとも私は、あまり耳にした記憶がありません。

この言葉は、誰かの前向きな行動にブレーキをかけるためには使われても、現実を一歩でも進める力はほとんどない。

いや、むしろ拾われていたかもしれない未来ごと、潰してしまっているのかもしれません。

uoppay

ただ、私のように少し天邪鬼な人間の場合、「偽善だ」「やめておけ」と言われれば言われるほど、かえって嬉しくなって、もう一つ拾ってしまうかもしれません。

「人の善を信じよう」は、はたして理想論なのか?

ここまで読んで、「結局、人の善を信じようなんていう、生ぬるい理想論だ」

そう感じた人もいるかもしれません。

「人の善を信じるのは難しい。だから黙ってやるか、いずれは誰かが制度を作ればいい」

そう考えるのも、ひとつの現実的な見方ではあります。

けれど、そこで語られている言葉の多くは、正しいかどうか以前に、現実をどれだけ動かせるかという問いを、ほとんど引き受けていません。

誰かを論破することはできても、その言葉によって、釣り場からゴミが一つ減るわけではない。

問題を正確に指摘することと、問題を少しでも動かすことは、必ずしも同じではないのです。

現実を少しでも動かすのは、人の欠点を指摘する鋭さよりも、不完全な人間が、どうすれば一歩動けるのかを考え続ける、地味で面倒な想像力なのだと思います。

uoppay

だったら、ゴミが一つでも減る可能性に、そちらへ賭けてみてもいいのではないでしょうか。

釣りの免許制(管理制)という、ひとつの未来

ここまで「善意の可視化には意味がある」と書いてきました。

けれど現実として、釣り場は減り続けています。

現在の釣りは、非常に自由度の高い遊びです。裏返せば、管理者不在のまま成立している領域が広いとも言えます。

だからこそ、本気で荒廃やマナー崩壊を食い止めようとすれば、議論はいずれ「制度」へ接続されます。最終的に「免許制」や「釣り場の管理制」という発想に行き着くのは、不自然ではありません。

実際、管理者のいる有料釣り場が増えているのは、その“未来のかたち”を先取りしている例とも言えるでしょう。

すると、こんな声が聞こえてきそうです。

「ほらね? 善意は負け続けてるじゃないか。だから制度化が必要なんだよ」と。

──ですが、本当にこれは「善意の敗北」なのでしょうか。

そもそも、善意が“負ける”以前に、社会から見える場所にすら立てていなかったのではないか。

拾われたゴミは回収され、きれいになった釣り場は、何事もなかったように風景へ溶けていく。

善意がなかったのではなく、善意が“伝わっていなかった”だけかもしれないのです。

だから私は、敗北を認めたくない。

uoppay

悪意だけが残り続ける世界なら、せめて善意くらいは残したいのです。

“その日”までに、できること。

たとえ将来、釣りが制度によって管理される日が来るとしても──その日まで、私たち釣り人にできることが何もないわけではありません。

悪い行いは、放っておいても目に入ります。一方で、善い行いは、黙っていれば忘れられ、なかったことになってしまう。

だからこそ今は、善意を完全にしまい込むのではなく、少しずつでも「見える形」で残していく。その選択には、意味があると思います。

私は釣り人を理想化したいわけではありません。私たちは弱さもズルさも抱えた、ごく普通の人間です。

それでもなお、人は学び、真似し、ときに予想以上の変化を見せる──その可能性を、私はまだ手放したくないのです。

今日もSNSを眺めていると、嫌なニュースばかりが目に飛び込んできます。

善意に期待しても、報われるとは限らない。むしろ裏切られ、傷つき、後悔する場面だってある。

けれど、その流れの中で、「今日は釣れなかったけど、ゴミを少し拾った」

そんな不器用な報告が、ぽつりと流れてくることがあります。

uoppay

それを見ると、不思議と気持ちが温かくなる。

そして、「自分も、次はそうしてみようか」と思うのです。

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