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“釣れなかった日”の尊さを、まだ知らない釣り人たちへ

「釣れなかった日は無駄だった」——いつから私たちは、そう思うようになったのでしょうか。

SNSには爆釣報告が並び、結果ばかりが価値になる時代。

それでも私は、ボウズだった日の記憶にこそ、その人の人生や“釣りそのもの”が残っている気がしています。

これは、釣れなかった時間を少しだけ肯定したい、ひとりの釣り人の話です。

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目次

釣れない釣りブログを読むが好きだ

2000年代初頭にありそうな、AIの作った架空の釣りブログ

私の少し変わった趣味のひとつに、「釣れない釣りブログを読む」というものがあります。

いや、正確には少し違います。釣れた日も、釣れなかった日も、同じ温度で淡々と記録しているブログを読むのが好きなのです。

みなさんご存知の通り、釣りはそう簡単に釣れる趣味ではありません。とくにオカッパリはなおさらです。本当にすべてを記録したなら、多くの釣り人は「釣れなかった日」の方が記事数として多くなるはずです。

だから私は、「釣れない釣りブログ」に妙な親近感を覚えます。釣れなかったことを包み隠さず書く姿勢に、ある種の誠実さを感じるのです。

今のネットは、良くも悪くも「うまくいった話」に偏っています。

でも、釣れないブログには、その人の生活や人生が残っている。眠かったこと、風が強かったこと、カップラーメンを食べたこと、何も起きなかったこと。それでもルアーを投げ続けていたこと。

そこに残っているのは「釣果」ではなく、「釣りそのもの」なのだと思います。

かつては、あれほど大量にあった釣りブログも、今ではほとんど姿を見なくなりました。そんな時代に、「釣れなかった日」まで淡々と記録し続けている人を見つけると、私は少し嬉しくなるのです。

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感覚としては、夏の終わりに蛍を見つけた時に近い。

別に何か得をするわけではない。でも、「まだそこに残っていた」という事実に、少し救われます。

ボウズはいつから無駄になったのだろう?

釣り人にとって、ボウズは敗北です。

帰り道、渋滞に巻き込まれながら、「何をやっていたんだろう」と深いため息を吐く。あの、なんとも言えない虚無感。

もちろん、釣れなかった悔しさ自体は、釣りの楽しさの一部でもあります。

ただ最近、その感覚が少しだけ強くなりすぎている気もするのです。

SNSを開けば、ランカー、爆釣、自己記録更新。もちろん、それ自体は悪いことではありません。釣りの楽しさを共有する、とても健全な文化だと思います。

ただ、その景色を見続けていると、少しずつ感覚が変わっていく。

釣れない日は価値が低い。釣果が出なければ意味がない。

そんな空気が、静かに頭へ入り込んでくる。

でも本当に、そうでしょうか。

考えてみれば、子供の頃はもっと単純でした。ルアーをキャストしているだけで楽しかった。

もちろん、あの頃とは違います。限られた休日の重みも、朝まずめの眠さも、今は嫌というほど分かる。

大人になると、釣りにも「コスト」が発生します。

ガソリン代、高速代、削られていく睡眠時間。限られた時間とお金を使っている以上、「せめて釣れてほしい」と思うのは自然なことです。

そして気づけば、私たちは少しずつ「結果」で物事を見るようになる。サイズ、本数、SNSのいいねの数。「何匹釣れたか」が、その日の価値を決め始める。

もちろん、それも釣りの楽しさです。ただ、その基準だけで釣りを見続けると、少し苦しくなる。

なぜなら、釣りという趣味は、本来かなり“無駄”な遊びだからです。

朝2時に起きて、2時間高速を走らせ、水辺に立つ。何も起きないまま終わる日もある。それでも、また行ってしまう。

冷静に考えれば、かなり不可解な行動です。

費やした時間や金額だけを見れば、もっと合理的な過ごし方はいくらでもある。けれど人間は、多分、合理性だけでは生き切れない。

成果も、生産性も、効率もない。ただ風を見て、水を眺め、魚がいるかも分からない場所へキャストする。

そういう“何も生まない時間”の中でしか、回復できない感覚があるのだと思います。

だから釣りとは、魚を釣る趣味というより、現代社会から少しだけ人間性を取り戻すための行為なのかもしれません。

そしてボウズとは、その無駄が、まだ完全には失われていない証拠なのです。

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だから私は最近、ボウズだった日についても、もう少しだけ違う見方をしてみたいのです。

釣りができる時間・場所があるという幸せ

「いつまでもあると思うな、親と金」なんて言葉がありますが、釣り人なら、こう言い換えられるのかもしれません。

「いつまでもあると思うな、時間と場所」

私が「人生には限りがある」ということを強く意識し始めたのは、40歳を過ぎた頃でした。晩婚で育児にも追われ、自分だけの時間が一気に消えた。そしてその時、今まで自分がどれほど贅沢に時間を使っていたのかを、初めて実感したのです。

失ってからしか分からないもの、というのがあります。多分、それは釣りに限った話ではない。健康も、人間関係も、人生の残り時間も、きっと同じです。

そして今、釣り場そのものも静かに減っています。分かりやすい「釣り禁止」だけではありません。

駐車場の閉鎖や、ウェーディングポイント、出船場所といったエントリーポイントの消失——そんな“間接的な釣り禁止”も、確実に増えている。

昨日まで普通に立てていた場所が、ある日突然「行けない場所」になる。

「まあ、他にも場所あるし」昔は私もそう思っていました。でも、その“他”もまた、少しずつ減っていくのです。

ひとつの場所が閉鎖されれば、人は別の場所へ流れる。結果として、どこも混み始める。

一部では「バス釣りはオワコンだ」と言われながら、現場では混みすぎて竿を出せない日すらある。

人も減っているのでしょう。けれど、それ以上の速度で、釣り場の方が減っているのかもしれません。

そして多分、本当に失われているのは、単なる“場所”だけではない。

「いつでも行ける」と思えていた、あの頃の自由そのものなのです。

さらに言えば、釣り場が残っていたとしても、人は釣りに行けなくなる。

健康、仕事、家庭、年齢。私はこれまで、「釣りに行けなくなった人」を何人も見てきましたし、自分自身もまた、その入口に立っている気がしています。

だから最近は、何気なく行っていた釣行や、ボウズで終わった一日ですら、少し見え方が変わりました。

時間があり、行ける場所があり、普通にルアーを投げられる。それだけで、本当はかなり恵まれていたのではないか、と。

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そして多分、悲しいのは、そういうことが大抵、失ってからしか分からないことなのです。

ずっと“魚”を追いかけて

子供の頃、フィールドには夢がありました。水辺へ行けば何かが起きる気がしたし、ルアーを投げているだけで楽しかった。

大人になると、私は別の夢を見るようになります。仕事、将来、社会、自分の居場所。気づけば、釣りから少し距離を取っていました。

けれど今度は逆に、社会や仕事に疲れると、逃げるようにフィールドへ戻るようになりました。夜明け前の高速道路を走っていると、不思議と少しだけ呼吸が戻ってくる感覚があったのです。

今は育児もあって、昔のようには釣りへ行けません。

それでも、あの湖は今も変わらずそこにある。

そして時々、静かにこちらを呼び続けている気がするのです。

あの頃、子供だった自分が憧れた魚たちも、きっと今もどこかで泳いでいる。

多分私は、今でもその続きを見ようとしているのだと思います。

10年ほど前、とある海外の記事を読みました。

余命宣告を受けた男性が、「最後にしたいこと」として釣りを望み、それを周囲の人たちが叶える——そんな内容でした。

別に、最後にしたいことが釣りである必要はなかったと思います。

それでも私は、彼が「釣りへ行きたい」と願ったこと。そして、その願いを叶えたいと思った人たちがいたことに、なぜか強く心を動かされました。

多分私は、ずっと魚だけを追いかけていたわけではなかったのでしょう。

逃げ場所だったのかもしれない。自由だったのかもしれない。

あるいは、自分の人生に“意味のようなもの”を探していたのかもしれない。

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だから今でも、釣れなかった日のことを、簡単に「無駄だった」とは思いたくないのです。

釣れない日に、意味を与えたい

多分私は、釣れない日に意味を与えたいのです。

なぜなら、自分の人生そのものが、そういう「報われなかった時間」の積み重ねで出来ているから。

もちろん、釣れた方が嬉しい。それは間違いない。でも、釣れなかった日まで全部「失敗」にしてしまうには、釣りという趣味は、少しだけ豊かすぎる気がしているのです。

だから、もし次にボウズだったとしても、「今日はダメだった」で終わらせる前に、ほんの少しだけ思い出してほしい。

朝焼けの匂いとか、コンビニで買った缶コーヒーの温度とか、まだ誰もいないフィールドの静けさとか。

キャストのたびに、少しずつ余計なことを忘れていった時間とか。

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魚は釣れなかったかもしれない。でも、何かを取り戻していた日も、きっとあったはずだから。

あとがき

「釣れなかった日の尊さを、まだ知らない釣り人たちへ(キリッ)」

……な〜んて、ええかっこしい事を言っていますが、その“釣り人たち”には、もちろん私自身も含まれています。

今でも、釣れないと普通に死ぬほど落ち込みます。

だから、まだ全然分かっていないんです。

釣れなかった日の尊さなんて。

でも、だからこそ知りたくて、こうしてこの記事を書いているのかもしれません。

今でも私は、釣りたい沼に肩までどっぷり浸かったままです。

シマノ 22ステラC2500S

自重(g) 175
ギア比 5.1
巻き取り長さ(cm) 70
最大ドラグ力(kg) 3
PE糸巻き量(号-m) 0.6-200
ベアリング数(BB/ローラー) 12/1

子供の頃、釣具屋のショーケースに並ぶそれは、“道具”というより憧れそのものでした。

値札を見てそっと棚へ戻し、「いつか大人になったら」と思っていた人も多いはず。

シマノ ステラ は、今でも多くの釣り人にとって“少年時代の夢”の延長線上にあるリールです。

そして不思議なことに、大人になって手に入れても、人は普通にボウズを食らいます。……でも、多分それでいいのです。

本記事で使用されている画像の一部は、画像生成AIを使用して生成されたものでありフィクションです。登場する人物、団体、名称、場所などはすべて架空のものであり、実在するものとは一切関係ありません。

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