本記事で使用されている画像の一部は、画像生成AIを使用して生成されたものでありフィクションです。登場する人物、団体、名称、場所などはすべて架空のものであり、実在するものとは一切関係ありません。
ボラ・チヌ・シーバスは不味い?

釣りをしていれば、誰もが一度は耳にする言葉でしょう。
出どころも定かではないその評価は、いつの間にか常識のように広まり、気づけば私たち自身の味覚や印象にまで影響を及ぼしていきます。
大前提として、魚の味は生息環境、とりわけ水質の影響を強く受けます。
その意味で、水質の変化に適応できる彼らの中に、いわゆる「当たり外れ」が存在するのは事実です。
しかし、本当にそこまで不味いわけでもない魚たちに、私たちは無意識のうちに「不味い魚」というラベルを貼ってはいないでしょうか。
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疑うべきは魚ではなく、自分の認知かもしれません。
今日は、そんな話をしてみたいと思います。
味覚は舌ではなく脳で感じている

まずはこの前提から始めてみましょう。
人間の味覚というものは、私たちが思っている以上に曖昧で、そして驚くほど簡単に揺れ動きます。
例えば、トイレのすぐそばの席で食事をする場面を想像してみてください。
窓際の席で食べる料理と、物理的には同じ味であるはずなのに、なぜだか満足感が違ってしまう。
もちろん、料理そのものが変化したわけではありません。
変わっているのは、環境であり、気分であり、私たちの認知です。

逆に言えば、決して特別とは言えないカップラーメンでも、深夜に恋人と未来を語りながら食べれば妙に美味しく感じる。
夏休み。海の家で家族と食べれば、それだけで必要以上にドラマチックな記憶へと昇格する。
つまり味覚とは、舌のセンサーだけで完結するものではなく、景色、記憶、気分、そして身体感覚までを巻き込んだ総合評価なのです。
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そして話が魚になると、この評価システムはさらに厄介になります。
「個体差」以外で魚を“不味くする”3要素
ではなぜ私たちは、本来そこまで不味くない魚に対して、時に厳しい評価を下してしまうのか。
少なくとも私の実感では、魚を不味くしている犯人は三人いる気がするのです。
釣った場所という色眼鏡

例えば、東京湾。
埋立地と工業地帯に挟まれたその景色は、少なくとも一般的に「美しい」と形容される類のものではありません。
私たちはその瞬間、無意識のうちに環境を評価し始めます。
「濁っているな」
「何か浮いているな」
「どことなく工場の匂いがするな」
そして、ごく自然な流れでこう続く。
「ここの魚、美味しくなさそうだな……」
まだ何も口にしていないにもかかわらず、脳内の判定はすでに進行中です。
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味覚は、事前評価から逃げるのがあまり得意ではありません。
匂いという“強烈な記憶”

味覚に強く作用する感覚があります。それが「匂い」です。
魚は本来、生臭さを含む特有の匂いをまとっています。
そして釣り人は、魚をいただくまでの過程で、魚を締め、鱗を落とし、内臓を取り出すという工程を経ます。
内臓の匂いを直接嗅ぐのは、捌く側の人間だけです。その瞬間に立ち上る匂いは、加工された食材のそれではなく、「魚」という存在の現実そのものです。
さらに嗅覚は、五感のなかでもとりわけ記憶と結びつきやすい感覚です。
だからこそ、魚の匂いは単なる風味以上の意味を帯び、私たちの味の感じ方に静かに影響を与えているのです。
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結果として私たちは、味を評価しているつもりで、実のところ記憶の印象を噛みしめているのかもしれない。
そしてそこに、評価の静かな歪みが生まれるのです。
味以前の問題として、捌く技術

魚をどう処理し、どう捌くかによって、味は驚くほど変化します。
血抜きや保存の段階からすでに差は生まれていますし、腹骨の取り方、皮引きの精度——そのどれもが最終的な印象を左右します。
ほんのわずかな手技の違いで、同じ魚がまるで別物の味わいになる。
「この魚は不味い」
そう語られる背景には、しばしば調理する側の技術的な誤差が紛れ込んでいます。
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釣り人は魚を釣ることには長けているかもしれませんが、魚を捌く技術まで標準装備されているわけではありません。
切り身の魔法

ここで、少し不思議なことがあります。
釣りをしない家族に魚を出すと、決まってこう言うのです。
「これ、すごく美味しいね」
けれど私は、そこまで美味しそうに見えていない。
むしろ「今回の刺身、ちょっと失敗したな」「正直、あまり自信がないな」と思いながら皿を差し出すこともある。
なぜなら、その魚を釣り、捌き、すべての工程を知っているのは私だからです。
釣った場所の景色も、立ち上る内臓の匂いも、自分の包丁さばきの未熟さも、すべてが記憶として張り付いている。
だからこそ、皿の上の一切れを、素直に褒めることができないのです。
一方で家族にとっては、ただの一皿です。
失敗も苦労もなく、「料理としての魚」だけがそこにある。
だからこそ、高評価が返ってくる。
私は魚の“物語”を背負い、家族は目の前の味だけを見る。
この違いは、思っている以上に大きいのかもしれません。
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そういえば、釣り人の友人が、海鮮丼の白身をずっと鯛だと思って食べていたことがあります。
ある日店主に聞くと、「それ、ボラだよ」と言われたそうです。
「不味い」という言説の正体

シーバスもチヌもボラも、たしかに「不味い個体」は存在します。水質や餌環境といった物理的要因が味に影響するのも事実です。
けれど、味覚により強く作用しているものがあります。
先入観、匂いの記憶、そして捌く技術です。
「ボラは臭い」という前提があれば、わずかな香りにも敏感になる。処理の精度ひとつで印象が変わるのも、その延長線上にあります。
さらに釣り人は、魚を単なる食材としては見ていません。釣り上げたときのぬめり、内臓を出したときの感触や匂いまで知っている。
その具体的な記憶が、皿の上の一切れに重なり、無意識のうちに評価へ入り込むこともある。
何も知らずに味だけを受け取る人との印象がずれるのは、魚が違うからではありません。
背負っている情報量が違う──ただそれだけのことなのです。
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味は魚だけで決まるものではない。
私たちが背負う記憶や先入観も、静かにその評価に加わっているのです。
魚を寝かせるもう一つメリット

「新鮮な魚を食べられるのは釣り人の特権」
そんな言葉を耳にすることがあります。
確かに魅力的な響きですが、新鮮さが必ずしも味の最高到達点とは限りません。
魚は寝かせることで旨味が増す。しかし、それ以上に見逃せない効用があります。
時間が“記憶のノイズ”を薄めてくれるという点です。
水質の印象。内臓の匂い。さらには、その日の疲労感。
それらは時間の経過とともに静まり、評価のバイアスを緩やかにリセットしていく。
つまり、魚を寝かせるという行為は——味覚に対する“ノイズキャンセリング”なのかもしれません。
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正直なところ、釣りで疲れた日は、ラーメンのような高カロリーで塩分の強いもののほうが、体には素直に染み込みます。
だから刺身は、その日のご褒美ではなく、少し寝かせたあとの楽しみになりました。
時間を置いて、体も気持ちも落ち着いた頃に、ようやく向き合える味なのです。
思い込みなく、フェアに味わいたい

味覚とは、きわめて人間的で、どこか曖昧な評価装置です。
だからこそ魚を口にする時、その判断の裏側をほんの少しだけ疑ってみたい。
本当に不味いのは魚なのか。それとも、自分の先入観や記憶なのか。
命をいただく以上、こちらの仕事はきちんとやりたい。
美味しい個体を見極めること。
正しく締めること。
丁寧に持ち帰ること。
そして、調理の腕を磨くこと。
味を決めるために、釣り人に委ねられた余白は、思っている以上に広いのです。
その余白を一つずつ埋めていく過程もまた、釣りの楽しみであり、ある種の特権なのかもしれません。
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そして——魚の身だけでなく、その背後にある物語までも咀嚼できるのは、釣り人にだけ許された、ささやかな特権なのかもしれません。
〜あとがき〜
人の味覚に疑問を持ったのは、小学生の頃でした。
家族の誕生日にだけ行く、特別なレストランがありました。
私はあの店の料理も、空気も、全部好きでした。
でもある日、クラスのリーダー格の子が「あの店は不味い」と言いました。
すると不思議なことに、みんなもそう言い始めたのです。
味は変わっていないはずなのに、評価だけが変わる。
あの頃から私は、味は舌だけで決まらないのだと思うようになりました。
空気や立場や、その場の物語に、私たちは思っている以上に左右されている。
だからこそ、できるなら。
誰かの声よりも、自分が感じた味を、大切にしていたいと思うのです。
